自分のトラウマに関する様々なことを考え始めた結果として、意図せずして自分の趣味、好き嫌い、抑えがたい衝動などの構造が見えてきた感があります。
他人が読んでも面白くも何ともありませんが、話を続けてみましょう。
トラウマによる人格形成? §
幼児期最大のトラウマは何かと考えると、おそらく幼稚園児時代に「謎の円盤UFO」を見ていることを「幼稚っぽい」とバカにされたことではないかと思います。
同年代の子供のかなりの割合はサンダーバードが好きであったのは間違いないと思います。それにも関わらず、サンダーバードと違って人形ではなく生身の俳優が演技している大人向けのドラマである「謎の円盤UFO」を「幼稚っぽい」とバカにされたのは大きな衝撃として残ったと思います。
しかし、だからといって、「謎の円盤UFO」を見るのをやめるという選択はありませんでした。それは、大きな魅力があったからです。
どうも、この時点で、私の趣味的な行動の規範が決定づけられたような気がしてきました。つまり、世間が何と言おうと、自分は自分で作品の善し悪しを見て決めると……。
宇宙戦艦ヤマトや機動戦士ガンダムは、そのようなポリシーによって自ら見つけ出したもので、ブームは後から付いてきたものに過ぎません。
このような行動パターンは、現在まで延々と続いています。見るアニメを決めるために、前評判、スタッフの名前、世間の流行を意識することはほとんどありません。見るアニメは、VHF地上波のアニメ新番組の第1話をチェックするという手順によって自力で見出しています。それによって、シュガシュガルーンも、妖逆門も見出して、とても有意義なアニメライフを送っているというわけです。
なぜゲームをするのか §
さて、トーノZEROという存在はアニメだけで生きている訳ではありません。現在のオータムマガジン上での存在感という意味ではゲームも無視できない大きなウェイトを持ちます。
ここで問題になるのは、なぜ私はゲームをするのか……という理由です。
個人的には、ゲームをするよりもプログラムを組みたいと思っています。そのために時間を使いたいと思っています。それにも関わらず、ゲームをしてしまう……という状況の背景にいかなる理由があるのでしょうか?
実は、これも過去のトラウマに理由を求めることが可能であることに気付きました。
それは、以下のようなことです。
どこかの店に設置されたスペースインベーダーを目撃して衝撃を受けたその日から、ずっとゲームに対するある種の憧れがあったわけです。
マイコン、そして初期のパソコンを使う過程で、かなりの割合をゲームを作るという作業に費やしたというのも事実です。(日本語ワープロもまともに使えないような非力なマシンでは、ゲームぐらいしか実現できなかった……とも言える)
そう……。
私はゲームを作る人であったという過去は事実としてあります。
その流れの結末は、ENIXでゲームのプログラムを書くという立場に結実します。
順風満帆とも思えるその過程の中で、1つだけ致命的に置き去られたものがあります。
それは、私はゲームは下手であった……という歴然とした事実です。
もちろん、お金がない中学、高校生の時代なら、ゲームセンターで100円玉を積み上げてゲームに没頭する財力もなく、練習できないから下手である……という理屈は付けられます。しかし、自宅のパソコン上で動くゲーム(気が済むまで何回でもできる)であっても、けして上手くはなかったのです。
実はゲームが上手くない……というのはある種の重苦しいトラウマです。
現在ACE COMBATシリーズやGNOをやり続けている自分は、実はゲームが下手くそな自分という過去のトラウマを原動力として推進される熱意によって支えられているのかもしれません。
一方で、プログラミングに関してはさしたるトラウマはありません。過去の武勇伝はいろいろあるし、決定的な敗北という体験もありません。つまり推進力となるトラウマはありません。
ゲーマーになるという理想 §
おそらくACE COMBAT 2をやっている頃は、人並みにプレイできることが目標だったと思います。そして、FINAL FANTASY VIIIあたりで人並み以上の何かを達成する領域に片足を踏み込み始めた感があります。それは、ULTIMANIA級の攻略本に書いていないことを自力で発見していく水準ということです。
そして、ACE COMBAT 5を1年半に渡って続け攻略情報をまとめたり、GNOで個人戦果ランキング1位を獲得したり、そういったステップを経てゲームの核心部分に踏み込んでいく「ゲーマー」という存在になれたと考えることができます。
ACE COMBAT 5とACE COMBAT ZEROの違い §
ちなみに、ACE COMBAT 5とACE COMBAT ZEROの自分にとっての違いに触れておくことも価値があるでしょう。
ACE COMBAT 5は、100%完全に自分のためにプレイしています。これをやるのは、自分が気持ちよいからです。その他の理由はありません。
しかし、ACE COMBAT ZEROをプレイする理由の中には、ゲーマーの自負心のようなものがあります。5のときには深入りしなかったスコア・アタックの世界に、ZEROでは撃破数チャレンジという形で踏み込んでしまっているのは、そのあたりに理由があります。
つまり、5をプレイする推進力は癒しだけですが、ZEROはトラウマが含まれるということになります。
ゲーマー廃業のカウントダウン §
長期的に見たゲーマーとしての自分の生き方は2つしかあり得ません。
1つは、プロのゲーマーになること。プロとしてプレイしてくれ……と言われたらやるかもしれません。しかし、ACE COMBATのプロゲーマーのニーズはおそらく皆無のようなので、ほとんどあり得ない選択です。
もう1つは、ゲーマー廃業です。ゲーマー廃業というのは、単にゲームをやめるという意味ではありません。誰もが「彼がゲーマーだった」と言うだけの成果をきちんと形にした後で引退するということです。
おそらく、ACE COMBAT ZEROなら全機種パックマン化のあたりがそのタイミングになるでしょう。
GNOはどのタイミングで引退すべきかはまだ見えていません。
え? アマのゲーマーを続ける可能性?
立派な成績を形として残せれば、トラウマは解消されてしまいます。推進力としてのトラウマを失ったら、継続は不可能でしょう……。
それでもACEの空は飛ぼう §
ゲーマーを廃業しても、ACE COMBAT 5の空は飛ぶことになるでしょう。その部分に関して言えば、トラウマを推進力に飛んでいたわけではないからです。
余談・シラケ鳥飛んでいく南の空へ §
トラウマに踊らされる自分……という構図を客観視できてしまうと、そこで白けてしまう……という要素があります。もはや、素直にトラウマを推進力として受け入れられなくなってしまうということですね。
そういう意味でも、ここらが人生の転機になるのかな……という印象も受けます。